CONCEPT STORY



ラストワン





 夜が怖い。眠ることが恐い。先週末から、私は同じ夢を見続けている。はじめの二日ほどは、偶然か、潜在意識のどうのこうのが原因で、こういうことも起こるのだろうと深く考えていなかった。だが、今日までで六日連続である。さすがに気味が悪い。
 規則正しいリズムの寝息を立てているのは、私の娘である。気持ちよさそうに瞳を閉じた彼女の顔は、私がこの世界で最も大切にしたいと思う財産のひとつだ。最近はこうして彼女の様子を見てからでないと、眠りにつくことができなくなっていた。
 夢のことについて、娘に話そうとはしなかった。不要な心配をかけたくはなかったのだ。かわりに相談した職場の同僚の男は、気づかぬうちに蓄積された心のストレスが原因だと言った。
「君も心配性だな。七日続いてしまったら、一生夢の世界から出られなくなるとか、そういうやつか? まあでも、あんまり気になるようなら、心療内科か、精神科に行ってみることだ」
「やめてください。そこまで深刻に考えてはいませんよ」
 心のストレス。自分がそれを抱えてしまっているとは考えづらかった。人並みの生活を送れていることに、満足しているからだ。何より、今は娘がいてくれる。娘には本当に感謝している。私にはなくてはならない存在だ。
 娘は、本当の両親を亡くしている。そのせいで、彼女は妹とともに世界に取り残された。私は親族のひとりとして、彼女がまだ幼い時分に、この家へ迎え入れた。心苦しかったが、私には生活を続ける余裕がなく、妹のほうは別の親族が引き取ることになった。
 それでも、彼女を引き取ったおかげで、私はそれまでの漠然とした孤独から解き放たれ、いわゆる幸せな日常を手にすることができた。だから私は、もう十分に満足している。もとより無為に高望みをするような性格ではなかったのかもしれないが、自分の年齢的に、人生で行き着く先の景色もその輪郭が見えはじめた近頃では、こうして今のまま、平穏に時間が流れてゆくことだけを望んでいる。
 布団の中、目を閉じながら思う。今晩もまた、となってしまえば、いよいよ一週間だ。そのときは病院に行って、体を診てもらったほうがいいのかもしれない。
 夢には睡眠から約三十分前の出来事が反映されると、聞いたことがあった。その通説が正しいことを期待して、自分が今日のうちにした、すべての人との会話の内容を反芻した。娘、同僚、上司、アルバイトの学生、路線バスの運転手。回想しながら、自分が一日で関わり合う人間が、ほんの数人しかいないこの現状に悲しくなった。また、彼らと交わした言葉をひとつひとつ辿りながら、世界には様々な意味を持った無数の言葉が存在しているはずなのに、自分が生きているうちに触れ合う言葉というのは、そのほんの一部でしかないのだと切なくなった。
 こんな気持ちになってしまってはたまらないと、私は思い直す。それでも自分は十分に生きてこられた。知らない言葉がどれだけ存在しようと、今はこうして生きているではないか。そして私は、またすぐに同じような調子の明日が訪れることを願って目を閉じた。





「ねえすごい汗。お水持ってきたよ」
「ああ。ありがとう」
 朝、私を起こした娘は、グラスを持って寝室に現れた。私はベッドに腰掛けたままそれを受け取る。
 案の定、私を悩ませる夢は続いた。その内容は、今朝もはっきりと思い出すことができる。今日は『大丈夫』という文字だった。
「具合が悪いなら、仕事は休んだほうがいいんじゃない?」
「いや、今日行けば週末だから。明日にでも医者に診てもらうよ」
 娘の心配は嬉しかったが、目覚めてしまうと体は正常だった。熱があったり、鼻が詰まったりするわけでもなかった。
 リビングは静かだった。しかしその静寂は、私がかつてまったくのひとりきりで生活していた頃の静寂とは違う。そこには体温を持った人間の気配を感じることができ、生活の痕跡が見て取れる。一日を生きるうちに関わり合う人間、それがひとり増えただけでも、私にとっては大きな変化なのだ。
 私は朝食を済ませ、ぼんやりといつものニュース番組を眺める。すでに食事を済ませていた娘は、洗面所で慌ただしくしていたかと思えば、歯ブラシを口にくわえながらリビングに現れた。
「今度の休みに、どこかへ連れていってよ。たまには、友達とじゃ行かないような、遠くに行きたい」
「ああ、もちろん。行きたい場所がないか、考えといてよ」
 娘と二人きりの旅行というのは、これまでの記憶にはない。彼女を引き取ってから、常に彼女のそばにいて、面倒を見てきた。しかし私は、家族という枠組みのことを正しく理解するより前に、彼女と生活することを選んでしまった。だから、彼女とともに時間を楽しむ機会を作ることができなかった。方法がわからなかったのだ。誰かが死んだときに私の故郷へ帰ることを除けば、私たちが住んでいるこの場所を離れることはなかった。
 私は、娘の突然の提案に驚きもしたが、心のどこかでそんな提案を待っていたのかもしれない。これから先もふたり、寄り添い合って生きていく上では、自然なことであろうと思った。
 歯ブラシをくわえながら私の返事を聞いた娘は、大きく表情も変えないが、私にはその様子がとても愛おしく思えた。



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